幼い頃からバスケットボール一筋だった百井こうへいさん。ケガで選手生活を終えましたが、バスケがあったから今の自分があると断言しています。バスケットボールが作ってくれた百井さんの人生についてお聞きしました。

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 バスケットボールとの出会い
 バスケットボールと出会ったのは、8歳の時でした。4歳年上の兄から教えてもらったマイケルジョーダンの姿に魅了され、どんどんバスケットボールにのめり込んでいきました。小学校の高学年になると、毎日かかさず、兄と3時間のワンオンワンをしていたのですが、年下の私は負けてばかり。兄に勝ちたい一心で努力を続けたことで実力をつけ、小学校5年生の時には、先生から絶賛されるような選手になっていました。
 
中学では強豪チームに所属し、改めて“バスケットボール”を学ぶことができました。厳しい環境ではありましたが、選抜メンバーに入り順調にバスケ生活を送っていた時、手首の骨折というアクシデントに見舞われたのです。選抜メンバーからは外され、2軍落ち。その後、再び1軍に這い上がるものの、次は足のケガをしてしまいました。そして、二度と1軍に戻ることはなく、中学でのバスケ生活を終えることになったのです。
 
 
初の海外で見た別世界
 進学した高校はバスケ部が弱く、別の環境に身を置き経験を積みたいという気持ちが芽生えました。両親に相談したところ、父が勧めてくれたのは、NBAチームの短期キャンプへの参加でした。高校2年の夏、単身で渡米。海外に行くのが初めてである上に、英語がまったく話せない私は、辞書片手に必死でコミュニケーションを取りました。
 
無我夢中で飛び込んだ場所。そこで見た光景は、見たことのない別世界でした。小学生から高校生までが共に活動しており、彼らはボールの扱い方からして自分の見てきたレベルとは違い、自己主張の強さに驚かされました。これまで自分がいたバスケットボールの環境を言葉で表すと団体。しかし、彼らがいるのは、自らのプレーを見せることで認められ、自己主張できなければ見てもらうことさえもできないという世界でした。そんな中で、身体の小さい私は、ディフェンスでアピールしようと努めました。その結果、キャンプ終了時にはディフェンス賞をもらい、英語ができない小さい身体の自分も、やればできるのだと道が開けた瞬間でした。
 
 
二者択一の末
 高2の冬からキャプテンになり、アメリカで得たものをアウトプットしようとしましたが、チーム運営はなかなかうまく行かず、もどかしい気持ちのまま高校総体が終わりました。そして、迎えた進路決定の時。推薦の話があった日体大への進学かアメリカ留学か、二者択一を迫られていました。迷った末、バスケットボールの本場アメリカで挑戦したいと、留学を決意。「とにかく自分の持っているものを出してこい」という父の言葉が背中を押してくれました。
 
当時はSNSも普及しておらず、留学準備には骨を折りました。キャンプに参加した経験があるとはいえ、外国でのコミュニケーションには慣れておらず、どのような留学生活になるのか検討もつきません。情報収集も英語の勉強も、ひたすら本を読むというアナログな方法で、なんとか不安をとりのぞこうとしました。
 
 
人生の分岐点
 渡米後は、語学学校ではなく高校に編入しました。バスケットボールで全米トップ5に入る高校で、日本人留学生はいません。選手たちは体格がよく、目の前でダンクシュートを決める姿は圧巻でした。すでに日本で高校を卒業していた私は、年齢の制限で公式試合に出ることはありませんでしたが、彼らと過ごす刺激的な日々を満喫していました。自分の強みであるディフェンスをアピールし、上のチームに昇格。練習試合に出してもらえるようになり、波に乗ってきた矢先、人生を変えるほどのアクシデントが私を襲いました。
 
足首じん帯のケガです。6か月間、車いすと松葉杖の生活。バスケ留学はどうなってしまうのか、心は折れ、悶々とする日々……。そんな時、テレビでアメフトの試合を観たのですが、フィールドで倒れている選手のもとに、全速力で駆けつける人の姿が目に飛び込んできました。手早く応急処置をする場面を見て、「俺がケガをした時は誰も来なかったぞ。プロになるとこんなケアが受けられるのか」と衝撃を受けたのです。これがアスレティックトレーナーという職業、スポーツ医学との出会いでした。
 
 
プロ選手と共に追いかける夢
 大学卒業後も日本に帰る気持ちはありませんでした。スポーツ医学を勉強したいとスイッチが入った日以来、自分の目指すものはアメリカにあると思っていましたから。大学時代、とあるフリーマガジンで特集している「アメリカで活躍中の日本人」という記事を読んだのですが、そこにアスレティックトレーナー兼鍼師として活躍している小松武史さんのお話がありました。小松さんとの出会いは、私の世界観を大きく変えてくれました。理学療法センターでインターンをさせてもらいながらマッサージ師として働き、スポーツ医学分野を学びました。自分の手を使って相手をケアするということが好きだと気づき、インターン終了後、ビザを取得してマッサージ師として働きました。
 
そんな時、小松さんがメイントレーナーをしていた佐藤琢磨選手のレースにトレーナーとして呼んでもらう機会が訪れました。なんと、佐藤選手はその時のレースで優勝。大きな信頼を得た私は、パートタイムのトレーナーを経て専属トレーナーになりました。
 
プロ選手のパーソナルトレーナーとして重要なのは、「愛嬌」と「礼儀」だと思っています。それはNBAであっても同じ。言葉にするのは簡単ですが、プロに就くのは自分の生活をどれだけコミットできるかどうかにかかっているので、並大抵のことではありません。選手とトレーナーの信頼関係が、選手のメンタルにも影響します。それを支え続けるのがトレーナーだと思っています。

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誰のものでもない私の人生
 こうして振り返ってみると、バスケットボールをしていて本当によかったと思います。もし、バスケをしていなかったら、留学はしていなかったでしょう。留学中、スポーツを通して「人」というものを学び、出会いの大切さを知りました。英語が話せない状態で渡米しましたが、スポーツを介すると、会話をしなくてもお互いに信頼関係を得ることができました。自分を見つめ直し、挫折をしても諦めない、乗り越えたらそこには夢がある。そして、今、プロの選手とともに夢に向かって走り続けている。こういう人生を作ってくれたのは、他でもないバスケットボールです。
 
これから海外へ行こうとしている選手の皆さんは、自分が日本人とだというアイデンティティを忘れないでいてほしいと思います。その上で、異国の文化を尊重してください。アイデンティティというのは、何をしたいのか、何を目指しているのかということ。この確固たる思いが自分を形成しているということです。何かにぶつかった時、“Why”で解決しようとしがちですが、それでは答えは出ません。理由は出ても、その先に進むことがない。でも、“What” “How” “Why”から生まれるものは、多くあります。「どのように解決するのか?」「何が必要なのか」を考えた時に“Why”とリンクをし、答えが出るでしょう。

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次なる夢へ
 アメリカと日本で大きく違うと感じるのは、選手の置かれている環境です。アメリカではどこでもボールをつくことができる環境ですが、日本ではのびのびとプレーできる場所が少ないと感じます。アメリカのような環境で育った選手たちは、自己主張ができ、潜在能力の出し方が日本人とは違ってくるのです。それを肌で感じた時、子供をよい環境で育成するトレーニング施設をつくりたい、という思いに突き動かされました。大人、子供問わず気楽に通える施設で、子供が目の前でプロのプレーをみれば、テクニックを真似して成長できる。そして、潜在能力を引き出し、伸ばすことができる。そのような施設を作ることが、今、私が向かっている大きな夢です!

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